息子さんから届いた一枚の写真。バルセロナ、ランブラス通りの夕暮れです。若き日の律子さんとご主人、そしてまだ小さな息子さんと娘さんが、街路樹の下にならんで立っています。
「あれは、いつやったかな」と、律子さんは少し首をかしげました。確かなのは、息子さんが小学校に上がる前の夏。1988年か、89年か。家族にとって、初めての海外旅行でした。
きっかけは、ガウディの本だったそうです。ご主人が会社の同僚から借りてきた一冊が、長いあいだ机の上にありました。ある日、律子さんがそれを開いて、「いつか、行ってみたいなあ」と、ぽつりと言ったのが、すべての始まりでした。
旅は、決して楽なものではありませんでした。慣れない石畳に息子さんは何度もつまずき、律子さんご自身は、冷たいスープが運ばれてくるたびに目を丸くした、と笑います。それでも——
夕方のランブラス通りを家族で歩いた、あの感じは、今でもはっきり覚えてる
乾いた空気の中、橙色の街灯がひとつ、またひとつとともり、花売りの声と、誰かのギターの音が遠くから聞こえていたそうです。娘さんは律子さんに手をつながれ、息子さんはお父さんの上着のすそを握りしめて歩いていた、と。
旅から帰った写真たちは、一冊のアルバムにおさまり、長いあいだ、押し入れの奥でしずかに眠っていました。
三十年以上の年月が流れて、大人になった息子さんが、そのアルバムをふと開きました。記憶のない自分の写真を見て、もういちど、父の声で聞いてみたくなったそうです。一枚の写真が、ご家族のもとに、あの夏の夕暮れをもう一度連れてきました。
──写真の中の、若き日のご家族は、何も言いません。けれど律子さんの言葉が、忘れていた家族の時間を、もういちど、ひらいてくれました。

